尊延寺とは----尊延寺地区のいまむかし(道案内にあたって)
40万都市・枚方市の東端に位置する氷室。尊延寺地区は古来、その中心を成してきた。市の表玄関である京阪電鉄枚方市駅からみれば、京都府・奈良県境と接する“遠地”であり、現実に道路や下水道などあらゆる都市基盤整備の遅れが目立つ。通勤・通学をはじめ日常生活において、市中心部との比較で大いに利便性に欠ける。住民も等しく思いを同じにしている。ただ、21世紀を生きるうえでのキーワ←ドである「うるおい」や「心の豊かさ」は、生活の利便性と必ずしも軌を一にしない。 氷室地域を少し観点を変えてみれば、まったく異なる像が浮かびあがり、わくわくさえする展望がひらけてくる。この地域ももちろん昔のままでなく、それなりの変貌を遂げてきた。しかし開発のテンポがゆるやかであった分、市城で豊かな緑が最も多く残り、地域住民に限らずいまや全市民にとってもかけがえのない財産である。また、3府県にまたがる関西文化学術研究都市(学研都市)の一部であり、その中心地(京都府精華町)からみれば隣接地にほど近く、その未来は燦然と輝く。そして何よりも この地域には、古人が営々と刻み築いてきた歴史と文化がある。それを守り、誇りにしている多くの人々がいる。 この農かな緑や歴史・文化に触れたいと昨今、地域外の市民らが訪ねるようになり、 新たなぬくもりに満ちた交流も生まれている。そこで新世紀がスタートしたのを機に、まずは尊延寺区民が里山に囲まれたこの 地の歴史や文化を再認識し、改めて訪れ歩く道案内として、また広く氷室や尊延寺 のすばらしさを見直していただくよすがにと「尊延寺地区歴史・文化コミュニティマッ プ」を作成した。歩を進める前に、予備知識として尊廷寺の来し方を紹介する。
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1.厳島神社本社本殿
創立沿革は明らかでないが、『氷室村郷土誌』にもとは小字惣谷にあったが、いつの頃か現地に移したと記されている。一説に「弘化2年(1845)移し奉りし」という。大正4年(1915)村社に指定。尊廷寺村の氏神で、市杵島姫命を祀る。本毀は文久3年(1863)
の春日移しとみられる。春日大社の式年造替の制(20年毎)から、天保15年(1844)造替時のものと考えられる。社殿平面や構造形式などから春日移しとされ、遠くない菅原(藤坂天神社)神社本殴と同時期の建物と考えられる。秋祭りは10月14口(宵宮)、15日(本宮)で、いまも地区住民によって受け継がれてにぎわう。拝殿が平成12年(2000)新築された。(尊延寺5丁目)
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2.厳島神社末社春日神社本殿
"国指定重要文化財"
ながく老朽化が進んだままだったが、屋根や軒桁、破風などに後補材がみられるものの軸部や組物は当初のもので、中性在郷神社本殿の貴重な遺構であることがわかり、昭和53年(1978)国の重要文化財に指定。室町時代中期の一間社流造。この社殿は、市内交野天神社本殿と多くの点で共通する様式をもつといわれ、同大神社に関係した工匠あるいは同天神社から影響を受けた工匠によるものではないかとみられる。平成7年(1995)に解体修理が完了し、色彩など創建当時の姿がよみがえった。地域の誇りだけでなく、市民みんなの宝である。(尊延寺5丁目) |
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3.来雲寺
尊延山河内院尊延寺といい、浄土宗。旧集落の大半が同寺の檀家である。もとは守口市佐大の来迎寺末の融通念仏宗寺院で、来迎寺を創立(貞和3年、1347)した実尊土人が留錫したことに始まるという。境内に永禄元年(1S58)と慶長16年(1612)の2基の十三仏板碑がある。大和〜正徳頃に浄土宗に改宗したという。本堂は文政6年(1823)に再建された遺棉だが、実際は大改修だったらしく、建立はそれより古い。江戸中期の手法がみられるといウ。(尊延寺5丁目) |
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4.尊延寺
幡山尊延寺といい、高野山真言宗。天平3年(731)に宣教大師の勅願によって建立され、12の僧彷を備えた天平伽藍様式の荘大な寺院だったらしい(『輿福寺官務傑疏』)。三之宮神社と葉、古くから密接な関係に会った。中世まで大寺院として隆盛を誇ったものの近世に入って衰退、明冶時代に入って奥之彷、池之坊、不動堂を残すのみとなった。現在は不動堂(本堂兼庫裏)と旧池之坊の諸党(開山堂、地蔵堂、大師堂)が残る。不動堂には、鎌倉時代の作と伝えられる不動明王、降三世、軍茶利、大威徳、全剛夜叉の五大明王が祀られている。また、平安時代中期の作とされる大日如来も安置されている。さらに、暦応3年(1338)の銘がある石仏の石屋形などもある。 |
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5.旧奥之坊の不動明王立象(村島家)
尊延寺12僧坊のひとつで、現在の聖法寺(尊延寺6−8)の地にあり、大塩平八郎の乱(天保8年、1837)の際、深尾才次郎が付人を集めるのに撞いた鐘は同寺のものという。だが、明治時代初期に廃寺になった。現在調査中だが、平安時代の作といわ不動明王立像・阿弥陀如来像・地蔵立像は奥之坊跡に近い村嶋吉−氏宅で祀られており、もとは弘法大帥像もあったが他家に移ったらしい。また、同が坊には天暦3年(949)建立の十三重塔があった、事情があってなくなり大正3年(1914)再建され、昭和40年頃まで近くの茶畑に移っていた。しかし昭和62年(1987)に村嶋カブの人々によって元あった聖法寺境内一角に安置された。(尊延寺6丁目) |
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6.阿弥陀三尊磨崖仏(小島家)
かつてあった遍照寺跡とされ、立派な磨崖仏がある。竹林に高さ1.7メートル、幅1.6メ−トルの花崗岩が露出。表面に三尊を彫り出すための舟形(高さ95センチメートル)を彫りくぼめ、像高76センチメートルの来迎阿弥陀立像、右に観音(像高41センチメートル)、左に勢至菩薩立像がある。表情が豊かで全体的によくまとまり、やさしく上品にみえる。南北朝時代の造立ではないかと考えられている。大阪府下でも数少ない磨崖仇として注臼される。(尊延寺1丁目 |
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7.大塩中斉遺跡碑(点保の乱記念碑)
元与力で高名な陽朋学者で知られた大塩中斎(平八郎)が幕藩体制の歪みや飢饉による庶民とりわけ農民の窮地をみかね、乱を起こしたものの破れた大塩事件。尊延寺村の深尾才次郎は、中斎の洗心洞の入門生。オ次郎はかねてから乱の計画を聞かされ、天保8年(1837)2月乱の行動を知ると奥之坊の鐘を打ち鳴らし、自家に村人を集めて「両国筋から攻めのぼる者があり、大塩先生とともに一戦を交える。加勢して勝利しよう檄文を読みあげた。村人ら総勢60人が「尊延寺村」と書かれた幟をたてて出発したが、途中大塩の敗走を知り、自らも逃亡したがやがて自害。兄の治兵術はやむなく挙兵に参加したのだが捕えられた。その他家族や参加した付人の多くが厳しい処分を受けた。治兵衛の一了・正人郎が家を再興したが昭和期に入って絶え、現在は畑地。その一角に深尾家が昭和47年(1972)顕彰のため「大塩中斎遺跡」の碑を建立した。(尊延寺2丁目) |
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8.圓山地蔵尊
いつの頃かち祀られたのか定かでないが、明治時代初めにはあったという。大住(京田辺市)に通じる道沿いで、一時盗難にあったが盗人の夢枕に「帰りたい、帰りたい」と懇願する声が聞こえ、地蔵尊の半身が元通り帰されたと信承されている。だから、いまも頭部がかけている。昭和8年(1933)、地元ムカイの有志が周囲を整えて屋根を設け、8月23日の盆供養を恒例行事として再興した。(尊延寺4丁目) |
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9.大師堂
もとは宗谷地区にあり、そのあたりに田畑があったり耕作していた人々が弘法大師を祀り、大師講を営んでいた。だが近くに養鶏揚ができて環境が悪化したため、昭和43年(1968)に尊廷寺の裏山に移転し、4軒という少ない講員で清掃など維持管理に励んでいる。(尊延寺6丁目) |
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10.旧中田酒造場「谷川」
枚方市東部は、近世から酒米の生産地として知られたばかりでなく、酒造りも行われてさた。田中昭導氏宅はかつて酒造場を営み、“鬼殺し”の異名で評判の銘酒「谷川」を醸造していた。だが大手酒造会社に押されるなどのため昭和54年(1979)頃廃業に追い込まれた。嘉永3年(1850)の創業とされるが、それより古く天保11年(1840)に五郎右衛門が同村字兵衛より譲り受けたとの記録がある。嘉永3年当時、交野郡には27酒造家が
いて、他郡に比べ断然多いものの鋭模は小さかった。五郎右衛門の酒造米高は180石であった。大正10年(1921)時の従業員は8人だった。酒倉・什込み部屋(たて11間半、よこ5間の木造1部2階建て)に人影はないが、染や柱の太さに圧倒され、かすかに酒の香りが漂ってきそう。(尊廷寺3丁目)
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11.氷室路
谷橋から集落をぬけ、上茶屋橋を経て国道307号穂谷口信号・バス停に至る約0.8キロ区間が、枚方市の愛称道路・氷室路。市が道に親しみと愛着を持ってもらおうと、平成2年(1991)10月に22路線に名付けた愛称道路のひとつ。道に沿って土蔵
や白壁の屋敷、石垣などが連なり、旧集落を貫く中心道路だったことをしのばせる。かつては田辺街道と呼ばれていたが、昭和5年(1930)に改修丁事が竣工、府道枚方田辺線となる。この際、控谷橋〜穂谷口信号の区間を穂谷川左岸から右岸につけ替えた。旧街道部分が氷室路にあたる。戦後、府道枚方水口線と呼ばれたが、45年(1970)に国道307号に昇格した。なお、尊延寺集落は、古くから氷室路が通る穂谷川左岸をサト、右岸側をムカイと呼ぶ。ムカイにも静かでぬくもりのある小径が多い。
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